今昔美術対談 Art Interview Vol.010 歴史上の人物 PART2

時代ごとにこの国を支えた偉人達の小さな楽しみを持った日々の交流に第一級の史料である手紙を駆使して増田孝先生がせまる!

増田
お待たせしました。初めてお見せするんですが、ちょっといいものなんですよ、さあどうぞ。開けてびっくり玉手箱じゃないんですが、これね、松永久秀です。
加島
エーッ松永久秀!
増田
こんなの無いですよね。この巻物は一昨年の古典会で手に入れたんです。珍しい手紙が入っており、随分目の利く人が集めたものだなと感じてました。どうしても手に入れたくて業者に入札を依頼し、成功しました。嬉しかったですね。二通目も又珍品ですよ。江戸初期に流行った小唄の隆達節の元祖、堺の人で確か日蓮宗の僧だったと思うのですが、高三隆達。なぜ判ったかと言うと東博に資料がありましてね、小歌巻で、その奥書に「自庵」とある。これは隆達の号でして、この手紙にも同じ筆蹟で自庵とある。しかもここには小唄のこともでてくる。これで紛れもなく隆達、新発見です。
続いて足利義満、こんなのも無いですよ。但し祐筆ですがね。
加島
いやあ、自筆でなくとも義満の手紙自体が見れないものだから貴重ですよね。
増田
と思います。そして足利義稙、次が井伊直政。ここの花押がいいでしょ。僕は自筆だと考えてます。家康の最も信頼してた家臣ですね。直政というのもめったにありません。
加島
そうですよね。内容はどういった事でしょう。
増田
この手紙の相手が病気だったようで、その見舞と、あなたの子息が家康公のところへ奉公に行くことは承知してます。その折は私が一緒に付いて行って挨拶しますから、といったことを申し送ってます。
次に浅野幸長があって、そして伊達政宗です。この巻物の中のピカ一です。
加島
政宗が出て来ましたね。でもこの花押はあまり見たことないですが。
増田
若い時です。松平陸奥守になる前、秀吉の時代ですから羽柴越前守、その時代の花押と考えられます。内容がちょっと面白いんですよ。「昨日はお尋ね、別して満足仕り候、ことに巌松持たせ参り候」、「巌松」というのは尺八の銘でね、「一段手に合い候、一両年も借用申すべく候」ぴたっと自分の手に合うので二年間借りたいと言ってるんですが加島さん、随分長いと思うでしょ。でも日付け…十二月二十七日なんです。
加島
ア、解りました。年内は数日しかないんですね。という事は年を跨ぐと言うことですか。
増田
そう、「ただし今年は月迫の間、年の内は有る間敷く候、一笑く」としゃれて書いてます。それでね、端裏を透かして見て下さい。宛名が「一噌」とあるでしょ。これ能楽の笛方の人物です。この名跡は現在も続いてます。
加島
政宗はいろんなことをやったスーパー趣味人ですね。
増田
才能のある人は自分の世界に遊ぶんですね。文化的な天分を持ってたんですよ政宗は。強いばかりが武将じゃない。
加島
文武両道という事でしょうか。
増田
そういうことですね。秀吉とギリギリの対峙が出来るくらいの戦国の雄でもあり、慶長十八年支倉常長をローマに遣わしますよね。ですから世界的な視野を培って、場合によっては自分が天下制覇するくらいの意気込みだったのですが、しばらくするとすでに天下の様子も変わった。その後、寛永期の家光による鎖国で羽根をもぎとられる様にして夢破れるんです。これはかなり悲惨だと思うんですよ。そんな事もあってだんだん酒に溺れるようになるのではないでしょうか。こんな話もあります。江戸城に行って将軍と酒を飲んだ政宗は家光の前で酒井忠世の膝を枕にして寝たというんです。
加島
エッそんなことが!
増田
本当の事です。ちゃんと細川家史料に出てきます。だから将軍の前でこんなことのできるのは政宗だけだと、まあ酒癖も相当悪かったんでしょう。飲んで騒いだり暴れたりしています。周りの者が今日は危ないと感じたら逆にじゃんじゃん飲ませて酔いつぶれさせ手足を持って奥へ引っぱって行って寝かせたと。家光も政宗には頭が上がらなかったのかもしれませんね。
加島
政宗には興味深い話が一杯あるんですね。
増田
そう、いろいろですね。さて先に進みましょうか。二つほど後の手紙が面白いですよ。ああこれ、前田利長(利家の息子)、前田の二代目です。本文は祐筆が書いてるんですが、返し書きは本人の自筆なんです。ほら筆致が違うでしょ。
加島
返し書きのところは線が少し柔らかいかな。
増田
そうでしょ。文章を読むと、もっとはっきりします。「足袋二束到来祝着の至りに候」と足袋を送って来たことに対する礼を祐筆に書かせて返し書きのところで「皮足袋の大指ちとせまく候て詰まり候間、その心得給ふべく候」と親指が窮屈だったから、次から気を付けてくれと注文をつけてるんです。これは本人しかわからない事でね…
加島
足袋屋の礼状の端に、自分が伝えたいことをついでに一言書き入れた、何か人間臭さが感じられますね。
増田
そう。この人間臭さが私が言う私文書の面白いところで、公文書には人間臭さが出て来ない。この手紙は殿様でありながら、自分のことに関しては自ら走り書きをするという、そこに利長の人柄が出ている様で親近感も持てますね。
前田で思い出したんだけど最近チョッとしたきっかけで前田利常の貴重な手紙が七通貼り込んである巻物を手に入れたんです。私の宝です。ご覧になりたいですか。
加島
是非。何でも見たい見たいと言って申し訳ないんですがお願いします。
増田
さあ、持って来ましたよ。この巻物に貼ってある手紙の前田利常は利家の三男です。先に話した利長の弟です。但し母親は芳春院でなく側室なんですがね。この利常という人がなかなか有能でして、前田家の宝庫である尊経閣文庫の基礎を作るんです。百万石の財力と彼自身の教養、そして高度な鑑識眼を持ってして成し得た事業だと思います。その収集の過程が垣間見える様な内容の手紙ばかりがこれに貼り込んであります。宛先は全て中村久越。久越は松花堂昭乗の門人で後になって前田家に仕えるんですが、この久越を手足の様に使ってあれを買え、これを求めよと美術品購入の指示をしてるんです。さあどうぞ鑑て下さい。
加島
それでは拝見します。前田の家紋の裂を使った巻物仕立で姿がいいですね。字粒が大きくて立派な書風ですがかなりの早筆ですね。気心の知れた人に対しての手紙だという事がよく伝わってきます。ア、ここのところ代金のことを書いてますよ。
増田
そうそう、代三十枚なら払えと言ってますね(笑)
加島
へぇー、金額の指示までしてるんですか。物の相場にも通じてたんですかね。
増田
それはいかに大々名でも自分で集める訳ですから、相場が判らなければ無理だと思います。そして最後に久越自筆の奥書があります。「右一巻は小松黄門菅原利常卿ご自筆なり、数十年御書を成し下され、当時々々御受けを相添え献上す」と書いてるんですが、これはどういう事かと言うと、利常の骨董を買い付ける指示の手紙を受け取った久越は、承知致しましたとの御受け(手紙を受取りましたとの書付け)を添えて一々利常へ返してたんです。前田家の場合は殿様から来た手紙をそのまま持ってちゃいけないんです。
加島
えー、受け取った手紙を差し出し人にお返しするんですか…でもそうすると受け取った方には何も残らない。覚えは取ったでしょうか。
増田
ええ、控えとして写しを取って置く事はあったと思います。とにかく原本である手紙を一々返さなきゃならないと言うことがこの奥書で初めてわかったんです。そして続けて「その後度々返上に及ばず裂き棄つるべきの旨仰せ事有るに任せ」殿様がもう返さなくていい、そちらで破棄せよと言って来たので「これを頂戴す。已後すなわちその刻々これを火中す」火にくべて燃やしてきた、とあって「この七通は殊なるご用なくば拝領仕りたき由、愚息等所望致すにより、これを与えおくところ」この七通だけは、殿様の方で特に何もご用なければ、私の息子も拝領したいと言うのでその様にしたところ、万治元年十月十二日に利常が亡くなってしまうんです。驚いた久越は息子からこの七通の手紙を取り戻して散逸しないよう一つにまとめ後の世まで大事に伝えて行くつもりである、と記してます。この奥書があることによって、七通の手紙が表具されて残った理由が判明するのです。
加島
ふーむ。よく七通だけでも残った貴重な一巻と言えますね。
増田
私は、こうした大切な史料を身近に置けることの喜びと共に、後世に残し、伝えて行かねばならない責任を強く感じます。私のところに一瞬だけ貴重な文書が居て下さってると、そんな気持ちです。その間に史料の中から歴史の小さな空間を埋める発見が出来れば、なお嬉しいじゃないですか。
加島
私も今迄にも増して上質の史料を提供できるように心掛けてまいります。
本日はお忙しい中貴重なお話を有難うございました。

※上記は美術品販売カタログ美祭10(2011年10月)に掲載された対談です。

profile

株式会社 加島美術 加島盛夫

  • 株式会社 加島美術
  • 加島盛夫
  • 昭和63年美術品商株式会社加島美術を設立創業。加島美術古書部を併設し、通信販売事業として自社販売目録「をちほ」を発刊。「近代文士の筆跡展」・「幕末の三舟展」などデパート展示会なども多数企画。

増田孝

  • 増田孝
  • 日本の古文書学者、書跡史学者。前愛知文教大学学長 前東京大学文学部講師。1971年(昭和46年)に東京教育大学(現在の筑波大学)教育学部芸術学科卒業後、千葉県立船橋高等学校教諭等を経て、愛知文教大学教授に就任。研究分野は日本書跡史、日本文化史。著書多数。テレビ東京の番組「開運!なんでも鑑定団」のセミレギュラーとしても活躍。

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