幕末から明治へ開国する日本のなかで海外に活躍の活路を見出した画家がいた。作品から見えてくる明治の美術の新たな一面にふれる。
加島
今回は先生にいろいろと作品を見てもらいながら、明治から大正時代にかけて活躍した画家たちについてお話を伺えたらと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
野地
よろしくお願いします。ところで加島さんがこの世界に入られて最初に買った作品ってどういうものなんですか。
加島
残念ながら数年前故人となられたのですが、私の恩師で書を研究なさってた波多野幸彦先生に書の面白さを教えていただき、それではじめて買ったのが蓮月の短冊なんです。
野地
蓮月尼・・・幕末の歌人ですね。
加島
そうです。波多野先生から、絵は見てすぐに感じるけれど、書は意味を読む面白さもあるから、二重三重に楽しめるよと、勉強してみなさいと言ってもらったんですね。
野地
絵では最初にはどんな人の作品を?
加島
絵は田中以知庵ですね。とっつきやすい作風で清逸な画風の中に俳味を感じました。この人の作品を数多く集めて販売していこうと思った初めての作家でした。
野地
田中以知庵って、咄哉州ですよね。咄哉州って実はよく分からない。速水御舟とか今村紫紅と同じグループにいたんですけど、作品のクオリティが揃って展開されるっていうことが今まであまりないですね。そういう意味ではちょっと手を出しづらい人の一人ですね。
加島
画集もないし?
野地
展覧会はね、生前に何回か百貨店の画廊であって、その目録は残っているんですけど、詳しい画像があまり知られていない人。当時は人気があったと思うんですけど、今はよくわからない。
加島
そうなんですか。そういう画家ってほかにもいますか?
野地
以知庵と同じグループにね、石山太柏って人がいるんですけどご存知ですか?
加島
山形の画家ですね。
野地
そうです。山形の出身の人です。大正期から昭和のはじめにかけて、かなり一生懸命日本画をやっているんですよね。それで、速水御舟とか今村紫紅の研究会に参加したりして。この間の美祭に2点ほどたしか出ていて、そのうちのひとつをいただいたんですけど。(笑)どうしてかっていいますとね、大正期の日本画の動向みたいなものをひとつ知りたいっていうのと、研究対象が紫紅・御舟だったものですから、その周辺の作家について知りたいなと思っていました。調べてみると、研究会には作品を出していて、赤曜会の展覧会には出していないっていう作家っていうのが何人かいる。で、彼もそのなかの一人なんですね。
加島
そうなんですか。太柏は山形では売れるんじゃないかと思って買ったことがあります。知っている人はほとんどいなくて、まぁ、見事売れなかったんですよ。
野地
あ、そうなんですか。
加島
えぇ。太柏を少し扱ってみようかな、と思った業者なんて僕くらいじゃないでしょうか。
野地
ぜひこれからもやってくださいよ。東京国立近代美術館にね、昭和の初め頃の作品だと思うんですけど、水墨画のものですごく写実的なものがあるんですよ。それを見たのが太柏の最初です。もう20年くらい前。
加島
へぇ、そうなんですか。
野地
で、どんな人なんだろうなって思っていました。それから知人が太柏の柿の木の絵を持っていらした。大正の5~6年くらいの絵で、すごいと思ったんですよ。あの頃の日本画では使わなかった紫の絵具を使っていて、たぶん新しい絵具なんかを使った実験的な作品だったと思うんですけど、それを見せてもらいました。そうこうしているうちにこちらで作品を扱われ始めてね、すごいなと思いました。やっぱりほかで扱わないものをやってらっしゃるでしょ。
加島
そう言っていただけるとありがたいです。みんながもてはやしていなくてもすごい絵を描く人は数多くいますよね。そこにかけてある鈴木華邨の猫とかも。どうでしょう?
野地
大正・・・明治の終わりくらいなのかな。菱田春草の「黒き猫」を見ないと出てこない図様ですよね。
加島
あぁ、なるほどそうですね。そんなところからもきているんですかね。
野地
こちらに渡邊省亭がありますけど、華邨は省亭とも同世代で、ほぼ同じ頃に亡くなっているはずですよね。大正7、8年に。同じ時代を生きた画家で、しかも日本国内より海外での評価が高い。
加島
すごい人気がありますよね。
野地
だから日本にあるものより海外にあるもののほうがクオリティが高い。例えばロンドンにあるもの、ニューヨークのメトロポリタンにあるもの、ボストンにあるもののほうが、すごく描き込みがしっかりしているものが多いですね。やっぱり明治20年代にはすでにある意味ではスターでした。華邨もそうなんですけど、最初は陶器の絵付けや図案で知られた人なんですよね。それは、当時の時代がそういうものを求めて、画家たちがそれに応えた、というかたちなんでしょうけどね。
加島
海外に作品があるというのは、外国人が日本に来て作品を持って帰ったということですか?
野地
絵だけではなかなか食べていけない時代でしたから、絵付けをしたり図案を書いたりして海外に知られるようになったわけですよね。それが万国博覧会なんかを通して次第に海外の展覧会に出すようになって、そこで買われていったんでしょう。省亭はパリ万博に実際に行っていますし、日本の絵師のなかで最初にヨーロッパを見た人じゃないかと思いますね。
加島
パリ万博では図案を出しているんですか?
野地
そうです。ただそれだけじゃ飽きたらずに、絵も描いて展示したんじゃないかと思うんですね。フランス人のシャルパンティエっていう印象派のパトロンがいたんですけど、彼のサロンに出入りするようになって、そこで絵を描くデモンストレーションをしたらしいです。おそらく日本の気候とか風土がよく感じられる絵を書いたのでしょう。そういうものが当時すごく受けたと思います。そのうちの一枚を印象派のドガという画家にあげたっていう話があります。絵のなかに「ドガ君に」って書いてあるんです。
加島
へぇ!
野地
それをずっと探していたんですよね。で、パリまで探しに行ったんですけど見つからなくて・・・。最近分かったことなんですけど、ドガが死んだとき遺族がオークションをしたらしいんですよね。で、ドガの持っていた所蔵品を分売したらしいんです。そのときにこの作品はアメリカに流れていて、いまアメリカの大学の美術館に入っています。ボストン郊外の美術館ですけどね。
加島
それは実際見に行かれたんですか?
野地
実物は見てないです。図版だけ持っています。
加島
どんな絵ですか?
野地
鳥の絵ですね。そこに確かに「ドガ君」と書いてあって、サインまでしてある。省亭の作品はヨーロッパ人にしてみるとわかりやすくて、しかも日本的な感じがするから、すごく持ちやすい絵だったと思います。華邨も同じようにデザインから日本画に入った人だから作品に華やぎがある。それで、そこに情感がある。
加島
華やぎがなければ、ヨーロッパ人は見向きもしなかったかもしれないですね。精神性ばかりでは。
野地
そういうものはもうすでにヨーロッパのなかにたくさんあるんですよね。だから日本らしさや東洋らしさとか、そういうものが欲しかったんだと思いますね。この頃はジャポニズムっていう流れにちょうど乗れた時期だったということもあるでしょう。1870年代から90年代までのヨーロッパはジャポニズムの時代ですから。そのなかですごく人気を得た最初の画家といえます。
加島
なるほど。
野地
明治17年に鑑画会というグループができます。当時、東京大学にお雇い教師で来ていたフェノロサと岡倉天心が共同で日本美術を復興させようという運動をしていて、フランスから帰国した渡辺省亭もそこに参加していくんです。鑑画会の展覧会に出した省亭の作品をフェノロサがすごく気に入って、アメリカに持って帰ったので、今はメトロポリタンなどで作品を見ることができるんです。これが本当にすばらしい作品なんですよ。フェノロサと岡倉天心を中心に東京美術学校ができたときも、円山四条派の教授としてフェノロサたちが考えていたのは省亭だった。
加島
そうなんですか。
野地
今まで省亭は円山四条派とよく言われてきた。でも本当はこの人は菊池容斎の流派なんですよね。そのせいか、この話を省亭は断ってしまうんですね。一介の市井の画家として生きるんです。でもやっぱりヨーロッパを知っている画家としての矜持のようなものがきっとあって、ほかの画家と馴染まないところがあった。その代わり海外の展覧会などには積極的に作品を出すんです。
加島
日本のなかではこのごろやっと省亭という人に目が向くようになってきたんですけど、でもまだまだ、という気はします。それはなぜなんでしょうね?
野地
やっぱり展覧会受けする大きな作品がなかなかないっていうことがあるでしょうね。省亭のことがすごく好きだった画家に鏑木清方がいます。省亭的な生き方にすごく憧れていたんですね。つまり市井のなかで、庶民のなかで描いていくっていう。展覧会向けの大きな会場芸術ではなく、床間の芸術を終始一環してやっていた省亭に清方はすごく憧れていて省亭の作品もすごく大事に持っていたんです。
加島
省亭の作品数はそんなに少ない訳じゃないんですよね。
野地
むしろ多い方なんじゃないでしょうか。
加島
先生のようにちょっとでも省亭に目を向けられた人がいらして、でも、これまでちゃんとした図録を手がけられていないというのは理由があるんでしょうか?
野地
そうですね。
加島
なるほど。それでは一旦ここで区切らせていただきまして、次回は省亭について、また近代の美術の世界についてもう少し掘り下げてお話伺えたらと思います。 |
Profile
加島盛夫
株式会社加島美術
昭和63年美術品商株式会社加島美術を設立創業。加島美術古書部を併設し、通信販売事業として自社販売目録「をちほ」を発刊。「近代文士の筆跡展」・「幕末の三舟展」などデパート展示会なども多数企画。
野地耕一郎
1958年、神奈川県生。成城学園で美学美術史を専攻。1983~97年の間、山種美術館学芸員として勤務。その後、練馬区立美術館主任学芸員として勤務した後、現在は、泉屋博古館にて学芸員を務める。
※上記は美術品販売カタログ美祭11(2012年4月)に掲載された対談です。