今回の対談相手は、世田谷美術館元副館長で現在は美術評論家として活躍される勅使河原純氏です。運命的な出会いを果たした菱田春草に始まり、現代の美術教育についての在り方まで、話題は尽きることなく繰り出されます。
【美術との出会い】
加島
今日は暑い中ご足労いただきありがとうございます。わたくしども商売が第一義ですので、作品のことなど浅学であったりしますが、今日は色々なお話をお聞かせください。
勅使河原
とんでもないです。こちらも難しい話はもう忘れてしまってます(笑)。
加島
わたし以前一度、先生が世田谷美術館にいらっしゃるときにお会いさせていただいて。そのときは山下清の作品を納めさせていただいたんですけど、それ以来でして。先生は世田谷美術館を退官なさったのはいつですか。
勅使河原
ええと、二〇〇九年、平成二十一年かな。ですからもう五年くらい経ちます。
加島
そうでしたか。では、先生が美術に目覚められた頃のお話辺りからお聞かせいただけないでしょうか。
勅使河原
いやあ、これはねえ、なんて言いますかね。高校の頃に色んな受験勉強をさせられるわけじゃないですか。それで一応はやってみたんだけど、どの学科もぱっとしないわけですよ(笑)。それで自分が一番原始的にというか、本能的にというか、好きな部分で生きていけたらと思って美術の方に行ってしまったんですよね。
加島
ああ、そうなんですか。
勅使河原
わたしの高校時代というと、ほとんどの人が金融かあるいはコンピュータ関係を目指していて、優秀な人たちがひしめいていたわけですよ。団塊の世代ですから。それで一つの学校の中だけでこんなに秀才がいるんじゃとても世間へ出ていけないと思って。急遽、高校二年くらいのときですかね、方向を転じました。
加島
そして東北大学に。
勅使河原
そうです。美学美術史学科というお定まりのコースに行きました。以来ずっと足が抜けないと言いますか(笑)。
加島
美術に目を向けられたときに、一番最初に出会われた作家さんはどなたでしたか。
勅使河原
わたしの名前からすると、皆さんすぐに草月流の蒼風さんとの関係について聞かれるんだけどね、確かに遠縁ではあって無縁ではないんです。だけど実を言うと、菱田春草の菱田家の方が姻戚が近いんですね。菱田さんは長野県の飯田で、勅使河原の家も飯田の出なんですよ。それで二重か三重に婚姻関係がありまして。
加島
ほお。
勅使河原
それで菱田家の方から、資料が大量に家にあるんで、あなた美術史やってるようだから、これをなんとか役立てて頂戴みたいな感じで、段ボールにいっぱい詰めて持って来られたんですよ。それに否応なしに引きずり込まれて。
加島
へえ。
勅使河原
そこからまず出会いがありましたね。 |
【菱田春草について】
加島
こないだの東北の大震災のときに流れてしまった五浦の六角堂が、今はもう再建されたという話を聞きました。あそこで観山、大観、春草、武山が絵筆をとって並んでる写真がありましたね。
勅使河原
よくあの写真で問題になるのは並ぶ順序なんですね。
加島
はい?
勅使河原
天心が一番奥にいて、次に観山が控えて、大観、春草かな。その並び順については諸説ありますね。観山が一番作品も巧みだし、人あたりというか、世慣れたところで、気難しい天心の横で常に気を使って面倒を見ているとか。
加島
へえ。
勅使河原
そのために手放さないように座らせているとか(笑)。
加島
ああ、そうなんですか。ちょっと話が変わりますが、あの頃の天心のアドバイスが、画家たちの制作に影響を及ぼしたということですよね。西洋画の中の光とか空気とかを取り入れて描きなさいと、天心はそういうふうに言ったものなんですか。
勅使河原
日本画の昔の教育方法の中にあった暗示法というか、言葉によるテーマで絵を描く禅問答のような訓練の仕方が多分にあったと思います。そういう訓練をするアジテーターとして岡倉さんは並外れて有能で、それに気に入られようとして画家たちが努力していく。あの並んでる四人なり五人なりがお互いにライバルだから盗みあいをやるわけです。一つの画題で、ちょっと横を見たらいいのを描いているわけだから、それを取って、もっと良くしようとどんどん連携作用が出てくる。その中でまとめるのはやっぱり観山がうまいけれども、最初の発想は春草なんですよ、だいたい。
加島
ほお。そうですか。
勅使河原
この発想の豊かさと、的確性ね。瞬間的にひらめいて、まず最初に絵にする。そのあたりの画家にとって一番大事な独創とひらめき。春草は、弟子たちの間でそういうものが並外れていたんだと思います。
加島
僕のところでも猫とか、落葉とかを扱ったことがあります。屏風ではないですが、一部を切り取った図柄などがあって。あの猫でも作品数は多いんですか。
勅使河原
いろんな猫が、地面にいる猫から木の上に上った猫まで、アニメーションみたいにつなげられる程あるという気はするんですよ。でもそういうものを全部確かめたとかいうことはないですね。
加島
屏風の落葉という、あれも沢山あるかもしれない。
勅使河原
意外なものとか、また発見があったりするかもとは思ってはいるんですけどね。
加島
今度の春草展(注)にも新発見があるんですかね。
勅使河原
新発見はないんじゃないですかね。見てみないと分かりませんけど。
加島
まあでも、すごい作家ですね。
勅使河原
そうですね。作家もそうだけど、本人の才能の問題だけではないと思うんですね。時代がテーマを与える。そして自分の生い立ち。どんなところでどんな暮らしをして大きくなったのかということと、それから恩師が、どんなタイプの人でどういうふうに指導して絵描きにしていこうとしたのかとか。いろんなことが絡み合って、落葉とかにつながっていくわけです。だから、もちろん描いたのは春草だし、春草以外の人は描いてないわけだけど、でも春草だったらいつでも描けたかというと、やっぱりそれはそうでもないような。ちょっと活躍期が早くても遅くてもだめ。スパッとその時期にはまる。そういう神秘があるんじゃないかなと。でも、ほとんどの絵描きさんはなぜか外れるわけですよ。そのほんのちょっとのタイミングに。才能があって、嘖嘖たる経歴を積み重ねながら完全燃焼できないわけですね。本当になんでだろうっていうのが、いつも不思議ですね。
加島
時代の為せる、ということですかね。 |
【書家としての勅使河原蒼風と井上有一】
加島
ところで今回、先生が勅使河原蒼風さんについてお書きになった『花のピカソと呼ばれ』という本を読んだのですが、その中に井上有一のことが出てきまして。それでここにも掛けてみました。蒼風さんも、生け花だけでなく、こういう書も書かれるでしょ。勅使河原蒼風さんとか井上有一とかは、墨象芸術という分野に入るんですか。
勅使河原
そうですね、書の改革というかな。書の世界というのは、ずっと戦後一貫して二重構造じゃないですか。いわゆる書家という人たちがいて、これは日展始め、様々なところに書道部というのがあって、書だけを専門に書いている人たちがいるわけですよね。だけどアートとしては、全然そういう系統とは違った人が好き勝手に書を書くわけですよね。そちらの方が実は評価されてしまっていて。
加島
はい。
勅使河原
書家のものはみんな忘れられて。金子鴎亭とか、青山杉雨とか高名な書家は、名前は知っているけれども作品とパッと結びつく人はなかなかいないですよね。だけど、そこへいくと僧侶の書であったり、政治家の書であったりとか・・・。
加島
ジャンルの違う絵描きさんの書であったり。
勅使河原
そう、北大路魯山人とか須田剋太とか色々いますよね。そんなふうに蒼風もその一人だと思うんだけど、ぽつぽつと書を書いて、それも冗談みたいに書き始めるんだけど、実は本気でやっている。果たして一般の人は、二つの流れを見てどう理解すれば良いのかと途方にくれてしまう。そういう状況はあると思うんです。この井上有一なんかは、そういう目で見ると、どんな人なのかと。
加島
やっぱり書家の書とは言えないですからねえ。職業としての書家ではないですからね。
勅使河原
書を作る側の問題だけでなく、鑑賞する側の問題もあると思うのですが。
加島
ああ、それはありますよね。
勅使河原
本当に、そういう作品を一緒に並べられたときに、どれが一番感動を呼び起こすのか。専門的な知識のなかだけで制作されたものは、やはり普遍性が弱いですね。逆に余技とか遊びといわれるもののなかにも、人の心を打つようなものはたくさんあると、そう思いますね。
加島
だいたい筆で書を書くということが現代ではなくなってきてますから、書家の書というのは、お弟子さんの好む好まざるのところでしか動いてないということですね。書を習っていない一般の人たちは、書家の書を見てもあまり感動しないんじゃないですかね。 |
【伝統と芸術教育の今】
勅使河原
実は、これは最大の問題であると思うんですけど、書の伝統が切れ始めているということがありますよね。筆で書を書くことはもちろん、鉛筆で字を書くこともなくなってきているわけですよ。そういう中においてね、根底的に書家の書も、それから自由人の余技の書も危機に晒されていると思います。
加島
はい。手で字を書くとか、絵でも手で描くということがおろそかにされていく、書も先生がおっしゃったように衰退の一途を辿って行くということは、本当に残念で。
勅使河原
芸術としての衰退とか流行とかいうこととはちょっと違うことですが。今も専門の書家がいて、社中があって、お弟子さんたちが字を書いている。それは学校教育に支えられているんです。小学校からお習字の時間があって、そしてそれがやがて好きな人だけの書道の時間になっちゃうんだけど、それでも大学にも書道学科があったりして。
加島
なくなりはしないわけですね。
勅使河原
ですが今、その学校教育が危いのです。小学校の書道の時間は、ほとんど消えたと思います。書の次は音楽と美術が消えかかっていってます。
加島
消えかかっている。
勅使河原
そう。ほとんど消えていると思いますね。それでそれが中学、高校と消えていって、火が遠くの方からポッポッポッと消えていってますね。それが誰の相談もなしに、勝手にというのが恐怖なんですよ。
加島
そうなんですか。
勅使河原
はい。だから例えば美術館が、優秀な制作者と鑑賞者を育てて、そこで評価をされるならと大学が人材の育成に入って、ギャラリーさんや色んなところが経済的に支えて、みたいなことは意味がなくなるかもしれません。元から消えていくから。
加島
そうですか。
勅使河原
そう。そのところはちょっと、今日のお話とは関係ないかもしれませんけど。
加島
いやいや、そのお話こそ先生のお考えの中で一番聞きたかったことの一つなんですよ。 |
Profile
加島盛夫
株式会社加島美術
昭和63年美術品商株式会社加島美術を設立創業。加島美術古書部を併設し、通信販売事業として自社販売目録「をちほ」を発刊。「近代文士の筆跡展」・「幕末の三舟展」などデパート展示会なども多数企画。
勅使河原純
1948 年生まれ。岐阜県出身。東北大学美学西洋美術史学科卒業。美術評論家 世田谷美術館元副館長。現在、美術評論家連盟常任委員、(公財)三鷹市芸術文化財団理事、川崎市岡本太郎美術館運営協議会長、日本板画院理事、中央美術学園評議員。2009年4月、美術評論事務所「JT-ART-OFFICE」を設立、独立する。第7回倫雅美術奨 励賞、第22回シェル美術展佳作受賞。
※上記は美術品販売カタログ美祭16(2014年10月)に掲載された対談です。