vol.19 名に込められた悪意:滝と岩燕
私が彼と初めて対面したのは、平成29年3月~4月に東京の京橋にある加島美術のギャラリーで開催された「蘇る!孤高の神絵師 渡辺省亭」展だった。当時の私は渡辺省亭の名を聞いたことが無く、その花鳥画の凄みもやはり知らなかった。「鳥の絵ばかりで気に入ると思うよ」と強く薦めてくださった泉屋博古館分館長の野地耕一郎氏とアートテラーのとに~氏に連れられて初めて訪れたギャラリーには、写実的な花鳥画の数々が整然と並んでいた。掛軸の縦長の画面は仄かな光に照らされ、その中に様々な鳥たちの生き生きとした姿が封じ込められている。見慣れない不思議な画風ではあったが、どれもこれもが超絶技巧の逸品揃いで、描かれた鳥の種類のラインナップが実に素晴らしい。瞬く間に目も脳も魅了された私は会場内をせわしなく駆け回り、そしてある作品の前で足を止めた。
激しく流れ落ちる滝の下部がクローズアップで描かれている。画面下部には岩に当たって流れを変えた水しぶきがあり、上部右隅には緑葉をつけた樹木の枝が伸びている。そして水しぶきの傍らに2羽の小鳥が浮かぶ。この作品は「滝と岩燕」と名付けられているが、彼らはイワツバメなんかではない。鳥の“格”が全く違う。彼らはハリオアマツバメ、世界最速の飛翔速度を誇る、鳥界きってのスピードスターだ。古今東西を問わず、彼らが芸術絵画に登場したのは、これがおそらく最初であり、そして最後じゃないだろうか。
ハリオアマツバメ(体長20cm・翼開長52cm)はアマツバメ目アマツバメ科に属し、ヒマラヤ地域と東アジアで繁殖する。短く太い胴と極めて細長い翼を持ち、翼を伸ばし飛翔する姿は三日月またはブーメランのように見える。尾羽の羽先には尖った羽軸が突き出し、まるで針のよう。この“針尾”が名前の由来で、木肌に垂直に留まる時に体を支える機能があると考えられている。大木の洞内に営巣し、最高時速は170kmを超えるとされる高速スピードで林地上空を広く飛び回り、飛翔昆虫を空中で捕らえる。生息数が多い鳥ではなく、上空の高いところを高速で飛ぶ姿を時折見かける程度であるため、その姿や暮らしぶりを間近で観察できる機会は極めて少ない。
私が思いがけず足を止めたのは、そのハリオアマツバメの驚くべき写実描写が理由であった。特徴的な長い翼や短く太い胴のフォルムは勿論のこと、尾の先には“針”が微かではあるが認められる。翼や尾は青黒く輝き、一方で頭や背や腹は鈍い黒褐色で描き分けている。喉と臀部は白く、翼の付け根には白い三列風切羽までもが描き込まれている。また、実物の背は中央部が白っぽいはずなのだが、本作品では代わりに黒褐色がここだけ淡くなっている。なんという観察力、なんという描写力、そしてハリオアマツバメを画題とする玄人好みの選択! 渡辺省亭は私と同類の、異常なほどの鳥好きに違いない、そう確信した。
でもいったいどうして本作品に「滝と岩燕」の名が付けられているのだろうか。こんな鳥好きが自ら描いた鳥の種名を間違えるはずは無いから、鳥をあまり知らない第三者が勝手に名付けてしまったのだろうか。でも実は彼自身が公式に名付けたものかもしれない。そうならばこれは彼が意図的に作り出した“悪意”に違いない。一般の鑑賞者はこの鳥たちがハリオアマツバメだなんて分からないから、「滝と岩燕」の名に素直に納得する。それは絵画を評価し値踏みする批評家や画商も同様だ。「優れた写実描写が表れている」だの「細部を意識するあまり写実性が失われている」だの、花鳥画の写実性についての彼らの評価は、その是非を問わず非科学的で実に身勝手である。こんな無知な輩にどうして作品の良し悪しが分かるというのか。本作品に込められた省亭の“悪意”は、無知を恥と思わずに偉そうに評価や値段を決める彼らに対する、省亭の憤りや反抗の発露だったのかもしれない。省亭は“違いが分かる”同好の愛鳥家と一緒に、批評家や画商の“知ったかぶり”を後ろからこっそり笑いたかったのだろう。
これが初対面時に私が感じた渡辺省亭の第一印象である。それから2年以上の月日が経ったが、彼の印象は少しも変わらない。彼と再び会う機会があれば、この“悪意”を話のネタに笑い合いながら、酒を酌み交わしたいと思っている。
高橋 雅雄(鳥類学者 理学博士)
1982年青森県八戸市生まれ。立教大学理学研究科修了。
専門は農地や湿性草原に生息する鳥類の行動生態学と保全生態学。
鳥と美術の関係性に注目し、美術館や画廊でのトークイベントに出演している。