vol.23 男と女とエクリプス:雪中之鴨図
生物学的な定義では、鳥とは「羽毛を持つ現生の動物と、それらと共通する祖先を持つ絶滅した動物」を指す。近年になって鳥は肉食恐竜の1グループから進化したことが明確になり、一部の恐竜たちも羽毛を持っていたことが化石記録から明らかになっている。そのため、今では恐竜と鳥の境目が曖昧になってしまったが(有名な始祖鳥は鳥なのか恐竜なのか、専門家の間でも意見が割れている)、鳥の最も大事な身体的特徴が「羽毛を持つ」ことであるのは未だ変わっていない。
この羽毛は保温・断熱・防水・防塵・防傷それぞれの優れた機能があり、嘴・目・脚を除いた全身をほぼ覆い、鳥の命と体を日々守っている。また、一部は煌びやかな色合いや奇抜な構造を持ち、性成熟や求愛を誇示する機能が付加されている。さらに、翼や尾の羽毛は特別な形状で、彼らに飛翔能力を授けている。このように、羽毛は鳥の生存に必要不可欠であり、羽毛を獲得したことで鳥は繫栄できたとさえ言える。
こんなに大切なものであるのだが、だからこそ日常の酷使のため、羽毛は日々激しく消耗していく。常に外界に接しているため、風雨・日射・熱・物理的衝突・羽毛を摂食分解する寄生虫や細菌類などによって、ダメージがどんどん蓄積される。羽毛の機能が1つでも失われると、鳥は命の危機に瀕してしまう。それを防ぐために、多くの鳥は年1回、全身の羽毛を生え換える「換羽」をする。
換羽は子育てが終わった頃を見計らって行われる。日本に生息する鳥ならば、多くは8月頃だ。子育てが終わって秋の渡りが始まる前の一時期を換羽に費やし、渡りの長距離移動や冬の寒さに備える。子育てでぼろぼろになってしまった親鳥たちも、9月になるとつややかな新しい羽毛をまとい、見違えるほど美しくなっている。
その中でカモの仲間は一風変わった換羽様式を持つ。多くの場合、カモの雄は煌びやかな原色で飾られる一方で、雌は茶色・灰色・黒などの地味な装いだ。けれども、雄も夏の換羽直後は一時的に地味な姿になり、雌とよく似ている。これはエクリプス羽と呼ばれ、その装いで秋の渡りを乗り切り、越冬地に到着した後にもう一度換羽して、いつもの煌びやかな姿に戻る。すなわち、秋の渡りの時期だけは、雌雄は見分けがつきにくい。けれども、熟練のバードウォッチャーならば、その時期でも雌雄を区別できる。識別ポイントは種それぞれに異なるが、例えばマガモでは嘴の色が雌雄で異なり、雄は黄色だが雌は黒で赤茶色の縁取りがある。
さて、以上の知識を持って本作品を見てみよう。これには8羽のマガモが描かれている。4羽は派手な装いの雄で、他の4羽は地味な雌のように見える。雄の描写は、他の省亭作品ほどには写実的とは言えないが、全体のフォルムとバランスの整合性、各部位の色合いや形態の正確性、中でも見逃されがちな首の白い輪模様とクルっと丸まった腰の黒い羽毛が漏れなく描かれており、ある程度の写実性を認めることができよう。問題は地味な4羽だ。皆さんも気付いただろう、これらの嘴は明らかに黄色い。それに、雄にしか無いはずのクルっと丸まった腰の羽毛が、一番手前の個体と奥で飛ぶ個体とに生えている。すなわち、これらは雌ではなく、エクリプス羽の雄なのである。疑わない鑑賞者は、仲睦まじく寄り添ったカップルだと見てしまうだろうが、本作品に描かれた8羽は全て雄であり、カップルはどこにも存在しない。このような雄とエクリプスの組み合わせを描いた花鳥画は作者に拘わらず数多存在し、美術館や画廊でもよく見かける。作例のあまりの多さに、日本画家の間でカモのBL(ボーイズラブ)を描くことが流行ったのだろうかと、勘繰ってしまいたくなる。
省亭は、雄がエクリプス羽になることを知らなかったのだろうか、それとも意図的にこのように描いたのだろうか。エクリプス羽の4羽は、特に顔の描写が写実性ではなく、あまり省亭らしくない。ここに省亭の何らかの意図を疑ってしまう、評価の難しい作品だと思う。
高橋 雅雄(鳥類学者 理学博士)
1982年青森県八戸市生まれ。立教大学理学研究科修了。
専門は農地や湿性草原に生息する鳥類の行動生態学と保全生態学。
鳥と美術の関係性に注目し、美術館や画廊でのトークイベントに出演している。